furukatsuの軍事 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-02-03

[]「殴る」ことと「言うことを聞かせる」ことの間 「殴る」ことと「言うことを聞かせる」ことの間 - furukatsuの軍事 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「殴る」ことと「言うことを聞かせる」ことの間 - furukatsuの軍事 「殴る」ことと「言うことを聞かせる」ことの間 - furukatsuの軍事 のブックマークコメント

クラウゼヴィッツ戦争論によれば戦争は一種の強力行為であり、その旨とするところは相手に我が方の意志を強要するにある*1と書かれている。この考えの基本的なところは戦争論において徹頭徹尾貫かれているし、また以降の軍事学についても、相手に何かしらの意図を強要するために暴力を用いるのが戦争であるという定義は必要条件として採用されてきた。

私もこの考えに賛同する。戦争というのは殴って言うことを聞かせる行為に他ならない。

しかしながら、この「殴る」と「言うことを聞かせる」の間には大きな溝が横たわっている。まず第一に本当に人は殴られれば言うことを聞くのだろうか。換言すれば暴力により行為を強要しうるのであろうかという問題である。第二には戦争は本当に殴り飛ばせるのであろうか。換言すれば戦争は即ち暴力なのであろうかという問題である。

第一の問題については例外が存在するであろう。殴られ、銃を突きつけられ命を失う危険性を目の前にしても、ある種類の命令に人は反抗する。たとえば、自分の家族を殺せという命令であったり、ある種類の情報を提供しろという強要であったり、こういったものに対して正真正銘に命をかけて反抗するという例は枚挙に暇が無い。しかしながら、確実に強要しうる物も存在する。それは、ある場所に立ち入るなという強要であったり、ある行為をするなという強要であったり、極端なところでは存在するな*2という強要は暴力によって確実に可能である。これらをまとめると、「~を行え」という命令は暴力により必ずしも強要しえないが「~をするな」という命令は最悪殺害によって強要しうると言える。

むしろ「~を行え」という命令は暴力よりも、アイヒマン実験にあるような社会心理学的な手法を用いた方が確実に実行可能であると言える。実際にその暴力を執行する軍隊において殺人という心理的なハードルの高い行為をさせる為に、数々の心理的ハードルを乗り越える為の社会心理学的な手法を用いている*3。実体としての暴力を握っているのは最下級の兵士であるにもかかわらず、実際には兵士が将校の命令*4に従っており、軍隊軍隊自らその暴力限界性を示していると言える。

第二の問題については、現在イラク戦争が分かりやすいが、つまる所軍隊は占領下の市民を完全に掌握することは不可能であるという事である。十分な兵力を投入したとしても、相手の一挙手一投足まで掌握し管理することは不可能である。だからこそ占領政策では物流政治経済のキーポイントを抑える事により人民を管理するのである*5

もちろんこれらは、戦争暴力であり、暴力を用いて人に何かを強要する行為であるという定義を否定するものではない。しかしながら、戦争が万事を解決する処方せんではなく、暴力と強要の間には大きな溝が横たわっているというのも事実なのである。

*1クラウゼヴィッツ著、篠田英雄訳「戦争論(上)」岩波文庫、29頁

*2:要するに「死ね」ということ。

*3:デーヴ・グロスマン著、安原和見訳「戦争における「人殺し」の心理学ちくま学芸文庫 を参照せよ。

*4:しかも、時に自己や他人の命がかかった命令である。

*5:ゴルツがそんなことを言っていたような記憶が…

無名無名2007/02/04 18:28だからこそ、米軍基地の看板にはやたらと、「don't」が多いのでしょう。

無名無名2007/02/04 18:34軍隊で、上意下達を貫徹するために必要な手段は、抗命に対する制裁以上に、命令に服することが自己の生命を守ることになると思い込ませることでしょう。
その考えの行き着いた先が、近代初期に行われていた、前装銃による集団的、組織的一斉射撃と軽騎兵による突撃でしょう。
冷静に考えれば、どちらも自殺に近いですが。

無名無名2007/02/18 12:43最近誰も書き込まないので少し書き込みますが、「刀狩」が行われた国と小火器が出回っている国とでは占領政策を大きく変えなければいけないでしょう。
ちなみに日本において、人民に対し徹底した武装解除を強いたのは秀吉でも徳川でも無く、戦後の日本政府とGHQです。(今日の銃刀法です。)