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2008-02-19

[]沖縄少女を犯すのは、血に汚れた私達の手 沖縄の少女を犯すのは、血に汚れた私達の手 - furukatsuの軍事 を含むブックマーク はてなブックマーク - 沖縄の少女を犯すのは、血に汚れた私達の手 - furukatsuの軍事 沖縄の少女を犯すのは、血に汚れた私達の手 - furukatsuの軍事 のブックマークコメント

さて、産経新聞花岡信昭氏の記事から、やれセカンドレイプだ、いや米兵についていくような不注意な女が悪い、そういう言い方がレイパーのメンタリティだとブログ界隈等を騒がせている今日この頃、皆様は如何お過ごしでしょうか。

確かに不注意だと批判している連中の言い方がまさにセカンドレイプであるというような批判はその通りであると私も考えます。どん言葉をつくしてもレイプをするやつが悪いし、その被害者に対して自己責任を問うのは意味がないことです。

自己責任の議論に対する問題についてid:kurotokage氏の指摘を引用しましょう。

「家に閉じこもり、ドアには3重のカギを掛け、来客にはインターフォン越しにのみ対応し、にもかかわらず針金の入った窓を特殊な器具を用いて破った複数の屈強な男が、恐ろしい凶器を持って襲いかかり、普段から備えている防犯グッズを使い、かつ護身術を駆使しても叶わず、殺されることも覚悟して最後の最後まで殴られながらも必死の抵抗を試みた結果、被害に遭ってしまった」ような被害者のみが批判を免れるのですか?

「いや、そこまでは…」と言うでしょうが、後は“どの段階か”です。

つまり、ただの野次馬である“あなた”が、どの段階なら満足するか、という実にクソくだらない、どうでもいい話です、これは。

http://d.hatena.ne.jp/kurotokage/20080214/1202999388

こちらの指摘の通り、自己責任やそれに類する「しつけ」の問題を取り上げて被害者をあげつらう、非があったと糾弾することは問題があります。しかし、それでも彼らは批判をするわけです、何故か? これを少し考えてみましょう。


この理由は端的に先程の花岡氏の論説によって把握されます。彼の議論を引用してみましょう。

米軍は出ていけ」と声高に叫ぶのは言論の自由なのだろうが、そこには責任も伴わなくてはいけない。日本安全保障米国の「核の傘」が基本であることはいうまでもない。米軍撤退を主張するのなら、独自核武装論が付随しないと日本をめぐる安保環境は激変してしまう。

パワーバランスの空白を招いたら、東アジアの軍事情勢は一気に緊迫する。ほくそ笑むのは誰か。そこを抜きにして、厳粛かつ現実的な安全保障政策は語れない。

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080212/plc0802122007008-n1.htm

つまり理由は「安全保障」です。

安全保障上の理由を考えれば沖縄米軍が駐留することはやむを得ない、そしてそのために不幸な事件、事故が発生することは(その可能性を極小化するための努力は必要だが)やむをえないという議論が根幹にあるのです。しかしながら、彼らは直裁にそれを言うことに良心の呵責を感じるのか、それとも政治的立場のためにそう言えないのか、いずれにせよ、被害者の過失に責任を帰することによってこれを合理化しているに過ぎないのです。

つまり、かかる事件が発生したのは被害者責任もあるのであって、それは駐留米軍存在を否定するための議論とはなりえないと彼らは合理化しているに過ぎないのです。いかにその前段の被害者責任についての議論がセカンドレイプであって、無限自己責任に議論が帰着するとしても彼らは合理化のために被害者をくさしなければならないのです。

私はこのような議論は、さすがに卑怯だと思います。むしろ私を含めて駐留米軍はそれでも必要だと考える人たち、またもっと言ってしまえばアメリカによる安全保障体制の尻馬に乗っている日本国民達はその被害の責任を自ら負わねばならないのです。この文章を読んでいる多くの人々は石油を直接、間接に消費しています。しかし、マラッカ、スンダ、ロンボクというチョークポイントの安全を保障しているのは誰でしょうか? 携帯電話を使用している人はそこで使われているレアメタルの産出地から工場までの交通路を誰が保障しているとお考えなのでしょうか? 花岡氏が指摘した極東の直接的な安全保障以上にアメリカ本土の地球の裏側にある強力な策源の存在というのは重大なものなのです。私はこのようなことを鑑みるに沖縄米軍駐留はやむを得ないと考えます。しかしながら、私は被害者責任があったというような責任逃れの議論はしません。そしてまた、今の豊かな先進国の生活を満喫している人々もまたこの責任から逃れられないということを考えなければならないでしょう。

少なくとも、そんな責任逃れをする人に「厳粛かつ現実的な安全保障政策は語れない」と私は考えます。